しくじった?

 すっかり久しぶりの更新になってしまった。というのもFor Tracy Hydeのアルバム『Film Bleu』(もうお聴きいただけておりますでしょうか。こんなブログをご覧になる物好きな方は全員既にお聴きになっているかとは存じますが一応……)のリリース準備でこのところずっと慌ただしくしており、リリースから一週間経ち年内のバンドでのライブ活動も一通り終わったいまになってようやく落ち着きつつあるからだ。

『Film Bleu』についてはそのうちセルフ・ライナー的な形で全曲解説するつもりでいる(かなり先になると思います、いまもセールスがまだ動いていてネタバレで未聴の方の楽しみに水を差すような真似はしたくないので……)が、とりあえずいまはリリース直後の心境を率直に書きたいと思う。

 

 身も蓋もない言い方をすると、わたしはこのアルバムが失敗だったのではないかと不安でしかたがない。

 音楽としての質の話ではない(当たり前。もし品質に問題があればそもそもリリースしていません)し、売上の話でもない(無名に等しいバンドのインディーズ・デビュー作としては悪くない数字が出ているようです)。あくまでも個人的な心情の問題だ。その根源となっているのは、

 

 わたしにこのアルバムをつくらせた感情の高潔さをいったい誰が保証するのだろう

 

という疑問だ。

 

 今回のアルバムに限らず、わたしが音楽をつくる上でのひとつの指標となっているのが、幼少期から慣れ親しんでいるThe Beach Boysの『Pet Sounds』だ。『Pet Sounds』は言うまでもなく音楽的に非常に優れた作品で、かつとても崇高で高潔でもある。全編を隅々まで満たすのは一点の曇りもない愛––たとえば人への愛であったり、音楽への愛であったり、あるいは世界そのものへの愛であったり––で、その高潔さは恐らく誰もが認めるところだろう(だてに当時のブライアンは「神にささげるティーンエイジ・シンフォニー」を標榜していない)。

 その点で言うと拙作『Film Bleu』は愛の表現としてどうなのだろう。この作品にはその種の崇高さ、高潔さがひとかけらでも宿っているだろうか。

 そう考え出すといささか心もとなさを覚えてしまう。なにせ『Pet Sounds』の愛は高次元のものであると同時に驚くほど普遍的でもある。だからこそいままでにこれだけ多くの人々が共鳴し、50年にも渡って聴き継いでいるのだ。

『Film Bleu』の表現する(少なくとも表現しようと努めている)愛がただのわたしの独りよがりではない普遍的なものであると確信するには、証人が必要だ。わたしが「このアルバムは純然たる愛の結晶で、崇高な感情に突き動かされてつくられたものだ」と自分で断言してしまうのはたやすい。しかしそれではカルト宗教の教祖が自らの神聖性を主張するのとなんら変わらない。狂人のたわごとにはなんの価値も信憑性もないのだ。客観的に肯定してくれる証人がいてはじめてその主張が正当たりうるのは言うまでもない。

 問題は、その証人を得られるかどうかだ。この作品の背景にあるさまざまな知識・経験・事象・感情はどれも極私的なもので、それゆえに恐らくわたし以外にすべてを理解できる者はいない。果たしてそんな個人的すぎる背景から生まれた作品が普遍性を獲得しうるのか、わたしにはわからない。そんなありさまで「わかってくれ、認めてくれ、肯定してくれ」なんてわめいてみたところでね……。

 

 なんだかとりとめがなくなってしまいましたが、切実なお願いがございます。

 もし『Film Bleu』にほんの少しでも普遍的で高潔ななにかを見いだせた方、ほんの少しでもわたしが表現し伝えたかったものを感じ取れたと思う方がいらっしゃいましたら、なんらかの形で示していただけたら幸いです。言葉でもいいし、あるいはそうでなくてもいいので、それとはっきりわかる形でわたしにお伝えいただけたら、それだけでいくらか救われる気がします。どうかお願い申し上げます。