近所のパン屋さんが潰れた話/幸せについて思ったこと

 近所のパン屋さんが潰れた。

 僕がいま住んでいる退屈な街に越してきてから15年以上ものあいだ、当たり前のように通り過ぎてきた個人経営の小さな店だ。中に入ってものを買ったことも何回かはあるけれど、母が食パンにうるさすぎる(この店のパンはあまり気に入っていなかったのか、もう少し離れたパン屋さんによく行っていた)ことや、逆に僕がパンへの関心をあまり持ち合わせていないこともあってか、家から近いわりには印象が薄い。要するに店そのものへの思い入れは皆無に等しいと言ってもいいだろう。

 にも関わらず、僕はこの出来事にやたらと心を抉られた。ついこないだまで店内の壁沿いに並んでいたパンの棚がなくなり、床に工具や清掃用具が雑然と転がっているのに気づいた時点でもかなりショックだったけれど、いつのまにかそれすらなくなって、文字通りの虚無がそこには広がっていた。

 昔から商店が潰れるのを目の当たりにするのが苦手だ。というのもそれを営んでいた人々の気持ちを想像すると胸が痛むからだ。商店が営業する理由はほぼ例外なくコミュニティに善を施すためであり、顧客にーーそして巡り巡っては経営者や従業員たち自身にーー幸福をもたらすためだろう。店をたたむことでその目的を果たせなくなり、不幸になる人々が出てくるという事実が、僕は哀しくてしかたないのだ。

 件のパン屋さんとて例外ではない。たしかウィーンで製菓の修行をされたとかなんとかでドイツ語の賞状が壁に貼り出されていた記憶がある。店主は相応の志をもって店を開き、パンづくりに励んでいたのだろうし、開店時には当然店がなくなるなんて思いもよらず、いつまでも人々にパンを届け続けると信じていたはずだ。

 閉店したことに気づいてから1週間ずっと、僕は顔や声すら憶えていないこの店主の心境を思い、哀しんでいた。

 でも今日、ふと別のことを思った。

 閉店を苦にして自殺しない限り(そうする可能性は低いにせよゼロではないだろう)、店主の人生は続く。彼が生き続けるということは、希望的観測を言えば彼が閉店という不幸を受け入れてどこかで折り合いをつけ、パン屋さんとしての幸せに妥協しつつ別の幸せを探しはじめる(そして運がよければ見つける)ということでもある。

 店の客にしても、しばらくはいつものパンを買えないことや店主に会えないことに寂しさを覚えるだろうけれど、やがてどこか別のパン屋さんを見つけて素敵なパンに出会うかもしれない。あるいはコンビニで買える大量生産の食パンでも充分においしく食べられることに気づいたりもするかもしれない。

 要するにある程度は自分の幸せに妥協し、不幸と折り合いをつけ、新たな幸せを模索するというのは、誰しもが辿る道だし、そこまで哀しむことでもないのだ。そんな当たり前のことに、僕はいまやっと気づいた。

 

 最近、個人的に哀しい出来事があった。仔細は伏せるけれど、要するに男性と女性がいて、気持ちが通じ合わないまま取り返しがつかないくらいすれ違いはじめた先で起こる類の、ある種避けがたい出来事だ。

 でもひと通り嘆き哀しんだあとで思い返してみれば、僕がその人との距離の目測を誤っていたこととか、いろいろなものを求めすぎていたこととか、挙げたらきりがないけれど要するに原因はすべて僕にあって、だからその人がいまここで僕のためなんかに自分の幸せに妥協しないで済むのはいたって正しく、よいことなのだ。いまその人のそばにある幸せが少しでも長く続けばいいと思う。

 僕は僕でなんやかんや言って結局死なずに生きているし、生きている限り別の幸せへの道がどこかで見つかる可能性はいくらでもある。その道への入り口を見逃さないように、そして迷わずに辿れるように、しゃんとして生きてゆきたい。そうして幸せになった僕と、幸せになったその人が、1年後とか3年後とか5年後とかにふつうに友達になれたらいいな、と思う。

 

 新譜制作、がんばります。延び延びになっている前作のセルフ・ライナーもそのうち必ず。

f:id:strawberry_window:20170613224226j:image